昭和57年4月8日朝のご理解
                             入力者大坪寿子
御理解第88節
「昔から親が鏡を持たせて嫁入りをさせるのは、顔を綺麗にするばかりではない。心に辛い悲しいと思うとき、鏡を立てて悪い顔を人に見せぬようににして、家を納めよということである。」

(???しゅうの)ご大祭に引き続いて、えー、ご本部の(だんか)のご大祭を、まー拝ませていただきましたが、うーん、広島支部のご大祭に頂きました事は、うーん、えー、いちごの願い。そのいちごの願いと言うのが、あー、まー、一生願いでございますと言う意味でしょうけれども、その願いが、天地に通ずる願いでなからなければならない。まー今日88節を、まー頂くのですけれども、うーんいわゆるわたしいつも、ここのご理解の内容も勿論ですけれども、ほんとにこう広がりに広がっていく、おかげ、にならなければならない。えー、うん、ためにはどうしても、そのー、天地との、うーんつながりと、いわば、あー、天地の願いとされる願いといったようなものが、あたくしどもの信心の信条ともなり、同時にそこんところに、えー、うん、いちごの願いというものが、ね、ただ、一生懸命にお願いをすると、それはもちろん日日の、うーん、事を願っても行きますし、もう、おー、御商売をする人なら商売繁盛を願うでしょうし、不健康な人は健康を願うてもええんですけれども、うーん、その根底になるもの。それがいわば間違いなく天地と交流する。そこからあー、えー、広がりに広がっていくと言うか、昨日は、うーん、ちょうど祭場に入りましたら、日奈久の富永先生が、あー、ご挨拶に来てくださって、えー、先日から箱崎教会の親先生が、あのー、日奈久の方に見えられまして、今度、えー、あちら50年ですかね、記念祭に講師を、おー、ご依頼を頂きましたと。ほたこう、祭場にまいりましたら、あれは(みすみか)教会の教会長先生が、今度のご大祭に、富永先生、注文をつけるわけじゃないですけれども、あなたが合楽にかよ、おいでておられると言うことですが、合楽で言われるなりゆきを大切にする、尊ぶと言うことが言われるが、その内容についてお話をしてくださらんかと、講師依頼があったというお届けでございました。えー、したら、あたくしそんときはよう気がつかなかったんですけれども、うーん、あのー、電気の、昔の電気のこう傘が(でた)。いわゆる形においては電気の、おー、なーいうなら形です、ですけれども、それがやはり、そん電流にね、繋がっておからなければね、いかにスイッチを押したところでね、明るくなると言うおかげにはなりません。そう電気の傘だって、球が入っておって、きっちと、いうならば、あー、その合楽でいわれる成り行きを尊ぶとか、大切にするとかというて、ならそこんところをまねただけは形だけのことです。とにかく合楽にある一つの電源のような物と繋がらなければね、えー、ま、明るくならないぞと、そんときいただいとった事が、どんなことかあたしもよく気がつかなかったけれども、ほんにあんときいただいたのは、電気の形だけのところをいただいたがと思うて、おりましたら、えー、結局まー、合楽の信心に、敬等すると言う事は、あー、取りも直さず、まー、合楽とおんなじ、いうならば、光をいただく事が出来るという意味にも通じることだとおもうんですけれども、えー、あたくしどもの願いの、まー、芯と言うか、その、これならもう間違いなく天地に通ずる。またはこれが天地の願いであろうと思われる願いが、いうならば、えー、いちごの願いでなからなきゃならないということでございます。まーあたくしは、広島でもその事を、まー、聞いて頂いたんですけれども、うーん、あたくしの、うーん、ばばが大体大坪家の信心の一番初めですが、もうご祈念のときにも必ず、うーん、あたくしども兄弟3人の名前を言うて、「どうぞ大坪総一郎が、大坪総一郎が」というて、まー、あたくしの名を繰り返し唱えながら、「あなた様のお役に立つ氏子にお取立てください」ということでした。これがばばの一番の願いのような感じでした。ね。ですからやはりその、勿論日日の願いもありますけれども、そのいちごの願いというものが、これなら間違いなく天地に通う、通じる。そういうものがあって、合楽理念であり、ね。いわば運命による助かりということになる、とこう思うんです。お互いの、おー、信心内容が、えー、その、いちごの願いと言うその願いがね、そりゃそれぞれによっても違っていいと思うんですけれども、これなら天地に繋がる、そういうものがあって、形である。ね。電気のいうなら形だけは傘もありゃ、ほやもついとる。コードもついとるけれども、それが電源とのつながりを持たなかったら、いくら、ならスイッチをひねっても、明るくならないように、ね。わたくしは今日は、このご理解の内容ということよりも、88節という広がりに広がるおかげ。というのは、あのそういう、うー、所のつながりを持っての、おたがいの信心でなかりゃなならんと言う風に思うんです。
 そのこれも昨日ご本部で、えー、まー、皆さんにも聞いていたもらって事でしたけれども、「自分の力で開くと思うな」と。たとえば、これは合楽のひとつの流儀でもありますけれども、様々な、うーん、問題があります。ね。だからその、問題そのものを問題にせずに、頂いていくと言う生き方こそが、自然との働きを、密着させるものであって、それを自分の力で、たとえばうんなら、合楽の事を悪口を言う人がある。でそこでなら、こうですよああですよとそれを説明して、自分でその、まー、それを正そうとしても、ね、自然の働きに委ねての生き方。ね。えー、自分で道を開こうとは思わない。ね。いうなら成り行きをいよいよ大切にしていく。しかも大切にしていくというても、まー今日のご理解で言うなら、それをいちいち、人に顔、うーん、まー難儀な、あー、事であっても、それを顔にださんで済むような、いやむしろ心の上に、お礼がいえれるような、状態、そういう信心を頂いて、とにかく自分で開こうと思わず、ね、神様のおかげで開かしてもらうと言う、生き方。そういう生き方をいよいよ、うー、身につけさせていく、自然との言うならば、その、交流をそこに切実に感ずる。「なるほど、自分で開くのじゃない。神様がおかげで開かしてもらう」と言うそういう生き方が信条ともなる。ね。またあたくしどもの、まー、うーん、願いの、まー、根底のところにです、ね、天地に繋がる、通う願いというものがお互いの信心の中に一つの、まー、筋金がとおっとかなければならない。そこからあたくしは、いわばいよいよ、広がりに広がるおかげというのは、あー、そういう願いにたっての信心からだと思うんです。うーん、
 (???よしとみの)教会長先生が、富永先生に頼まれたと。いわゆる、「講師をお願いします。合楽では、ね、なりゆきを尊ぶ、大切にすると言われるが、その内容についてお話してください。その内容を聞いて、それを例えば、あのー、行じたにいたしましても、合楽との、いうなら、あう、合楽にある電源と繋がらなければ、実はおかげにはならないということです。この辺は大変不思議な働きと言うことですけれども、例えば大阪の玉水教会、先代がおられるときには、まー、あちらは、あー、商売人の町ですから、うーん、もうほとんど、商売の多いかったからでしょうけれども、おー、「神様がご主人。そこの主人は番頭さん。奥さんはそこの女中さん。」というような表現で天地との交流、天地とのつ繋がりを説かれたんです。ね。そしてほんとその、確かにおかげを受けたけれどもね、それをなら、九州に持ってきて、その生き方で言ったからと言うておかげにならなかった不思議がありますね。これは甘木でもそうです。甘木の信心が一切が、まー、例えば御物であると。言う生き方で、まー、甘木関係の方達はおかげを頂きましたけど、それをなら久留米関係の、おー、所に持ってきても、さほどおかげに、そりゃ神様の御物ですから大切にしますけれども、それでこのおかげが、交流してくると言う事ではなかったように思う。これはいつかあたくしいただいたことなんですけれども、天地の中には、まー、不思議な一つの、まー、仕組みと言う物がありましてね、まー、甘木には甘木の世界があり、玉水には玉水の世界がある。それは例えば昔の、有馬藩とか鍋島藩とかね、黒田藩とかという殿様がおってそこではひとつの、おー、金の流儀さえ違ったと言われますねー。鍋島と有馬藩では。まーそこの決まりと言う物があるわけです。これは鍋島藩が、だけ。これは有馬藩だけのひとつの規則。だからその規則にその、おー、やっぱ従うと言う事にならなければならないように、これは確かにね、その、甘木関係には甘木の、一つの世界玉水には玉水さんの世界があるようです。合楽でいわれるその、まー、合楽理念とこういわれますけれども、ね。これはやはり合楽の世界なんです。ですから、合楽で言っている事が、そりゃ天地に通う。形のことにおいては、あー、そうですけれども、やはり、えー、ね、わたくしを芯にした合楽世界というものがあるように思います。ね。だからどうしても、なら、そん、おー、合楽理念を、による助かりというても、合楽に傾倒するというものがなからなければ、つながりがないようなふうに感じるですね。これはまたわたくしもよくは分かりませんけれども、たしかにそういう世界があるようです。ね。天地の親神様の、おー、いうならば、あ、を信心して、様々な宗教が生まれました。キリスト教があり、仏教があると言うわけなんですけれども、ね、ですから、ね、そこにはなら教えすらも違ってくるのです。ね。ですからねやはり、あたくしどもはどうしても、合楽の信心を頂いて、その合楽世界を広げていくという、ことは、それに、神習して頂かなければなりませんけれども、これはどこまでもやはり、合楽の根本の信心に、みんなが帰依する、傾倒するというところからしか、合楽に現れておるようなおかげにはつながっていかないと、こういう。うーん、これはまーその(??にしみ)の先生と、箱崎のおー、先生の講師を、おー、願われたという、たとえば、あー、合楽の話をしてくれといわんでも、まー、富永先生、箱崎でもさえれておろうけれども、箱崎には、合楽に傾倒されておられるお教会。けれど一方はそうじゃない。同じ話を頂いても、そこに、あたくしがここで昨日お知らせを頂いて感じたことですけれども、電気のかさは、球は同じであっても、それが繋がるところへ繋がっておらなければ、ほんとの明るさはいただけないといったようなことをね、あたくしは感じました。うーん、そしていよいよあたくしどもの、まー、あー、生涯かけての、それこそ一期の願いというものが、ね、神様と交流するもの、それを合楽を通して、天地の親神様と交流する。これなら絶対、神様も喜んでくださるであろうという、その願いが一貫しておらなければならんということですね。どうぞ。